震災後、俳句を読んでいて季語への特別な思いが湧いてきたのは、なんだったのだろうか。伝統へ回帰したのとはどうも違う。
長谷川櫂の『震災歌集』への評判は、歌人側からはさんざんだったが、それにもめげず『震災句集』も出した。今度は俳人側からの評判が芳しくない。どこか気が抜けているというのだ。
私は短歌が悪評をかうほどのひどい出来だとは思っていない。俳句もまた。誰にも先駆けて出版しようとしたことの是非を除けばだが。
そうはいっても、やはりいまいちぴんとこない。
なぜ?
長谷川はあとがきに「季語には俳句を太陽の運行に結びつけ、宇宙のめぐりのなかに位置づける働きがある」、この特性のために「俳句で大震災をよむということは大震災を悠然たる時間のなかで眺めることにほかならない」と記している。
ぴんとこないのは、どうも、この「悠然たる時間の流れ」に起因するようだ。
(2012年8月4日)