大川小学校の校舎はすでに「立入禁止」のロープがめぐらされているが、3・11の日の姿はそのままだ。校舎裏の卒業制作の壁画も、色鮮やかにのこっている。
この一帯を保存するか、それとも撤去するかはまだ決まっていない。行方不明の子もまだ4人いる。
周辺のあら草に足を踏み入れると、ズックやらミニカーやら学習用品やらが散乱している。大津波の寸前まで持ち主がいたそれら。遺品ともならず、ただゴミとして捨て置かれている。
私は少し小高い、杉山の林道入り口に腰を降ろして、周辺を眺める。そう、裏山には細いながら山上へとつづく林道があった。だのに、なぜーーと、問うてもかいのないことをまた問うてしまう。
この地区かまや釜谷は、多くの民家も診療所もある集落だったが、ことごとく破壊され、だだっ広い原野と化してしまった。そのなかを大型ダンプが、砂塵をあげながら何度も行き来している。 (2012年7月18日)