【往還集124】35 「賢治短歌の謎と魅力」・続

2日目は岡井隆講演。
久しぶりにお会いする岡井さん、84歳とは思えぬ健在ぶりだ。
講演の日の朝、奥さんの恵里子さんも一緒にタクシーにのり、まずイギリス海岸を案内する。ここには、穂村弘、東直子、加藤治郎各氏も案内した。ふしぎとどの日も晴天で、北上川の水流は豊か。
今回も、炎天のもと、両岸の緑が鮮やか映えている。惜しいことに肝心の海岸状の岩は水底に沈んでいるが。
岡井講演については、べつにまとめる機会があると思うので、ここではセミナーを終わるにあたっての所感だけ書いておく。
これまで賢治短歌はその荒唐無稽ぶりから、若書きとして処理されることが多かった。それに対して私はひとつの短歌作品として評価する価値があると考え、セミナーもその観点から構成してきた。賢治短歌は近代から現代にかかる短歌史上で、最後にのこる未開の宝庫。その掘削作業はやっとはじまったばかりだ。

(2012年7月30日)

【往還集124】34 「賢治短歌の謎と魅力」

宮沢賢治学会の夏季特設セミナーでは賢治短歌をとりあげ、四年継続してきた。
そのコーディネーターの仕事も今回で終わり。7月28日、29日の両日を無事終了して一息ついたところ。
1日目は賢治研究会の中谷俊雄、大角修、長沼士郎、赤田秀子、古澤芳樹各氏に登場いただいた。いずれも東京圏の方々。4年間にわたって賢治短歌の読書会をやってきた、その風景を壇上で再現してもらう。たとえば

「酒粕のくさるゝにほひを車ひく馬かなしげにじつと嚊ぎたり」
「蛭がとりし血のかなだらひ日記帳学校ばかま夕暮の家」

について、忌憚のない、熱のこもった議論をハッシハッシと交わす。
私は途中で気付いた、もしこれが詩や童話だったなら白熱した意見をぶつけあうことはない、短歌だから可能なのだと。もちろん、賢治の歌が謎を埋蔵していることが前提としてある。
このことに気付いただけでも大きな収穫だった。

(2012年7月30日)

【往還集124】33 サービスの時代

家内に付き添って、レディス・クリニックへ。
色調を白系統で統一した、いかにも明るく清潔な館内。
外来待合室のほかに、奥の部屋には自由に出入りできる喫茶室もある。付添人もそこで待っていることができる。
いくつかのテーブルそれぞれに花が飾られ、無料の飲み物コーナーもある。コーヒー(うすい、こい)、リンゴジュース、アップルティー、水(ホット、コールド)、お茶。テレビ、赤ちゃん用のベッド、雑誌、そしてエレクトーン。壁面には診察者番号をしらせるパネルが。
私はコーヒーをのみ、つぎにリンゴジュースをのみながら感心してしまう。いたれりつくせりのサービスもここまできたとは。
クリニックのみならず、いばる時代はどんどん終わりを告げている。いばらない時代、サービスする時代へと移行している。
ただしそれですべてがうまくいくなら万々歳だが、実際はなかなか理想通りにはいかない。           (2012年7月25日)

【往還集124】32 ストリートオルガン

道の駅で演奏するストリートオルガン。

大川の帰り、道の駅「じょうぼん上品のさと郷」に立ち寄る。
涼風にあたりながら昼食をとっていると、オルガンが流れてきた。その音のほうへ近づくと、店の入り口に足踏みオルガンと手回しオルガンをおいて、ひとりの男性が演奏している。

「心の病気があり、路上の演奏生活をしております。最愛の母の介護をおえた今、もう少しだけ、奏でたい┄」

という説明書きが。
私はゆったりした音色に、しばし耳を傾ける。たまたま通りかかったひとに聞いてもらうだけの演奏。そのことに、えもいわれぬゆかしさを覚える。
自分だって、作品を大げさに刊行したりせず、手造りにして、たまたま出会ったひとに、そっとわたしたい。
これまでも小歌集『高校時代』『夜の泉より』『草案』をほんの少部数出したが、最近は繁忙にまぎれて途絶えてしまった。
もういちど手作り歌集をやってみたい。そんな気持ちが久しぶりに爽やかにわきあがってきた。         (2012年7月18日)

【往還集124】31 遺品ともならず

大川小学校裏にある、卒業制作の壁画。
草のなかに捨てられたままの、おもちゃや学用品。

大川小学校の校舎はすでに「立入禁止」のロープがめぐらされているが、3・11の日の姿はそのままだ。校舎裏の卒業制作の壁画も、色鮮やかにのこっている。
この一帯を保存するか、それとも撤去するかはまだ決まっていない。行方不明の子もまだ4人いる。
周辺のあら草に足を踏み入れると、ズックやらミニカーやら学習用品やらが散乱している。大津波の寸前まで持ち主がいたそれら。遺品ともならず、ただゴミとして捨て置かれている。
私は少し小高い、杉山の林道入り口に腰を降ろして、周辺を眺める。そう、裏山には細いながら山上へとつづく林道があった。だのに、なぜーーと、問うてもかいのないことをまた問うてしまう。
この地区かまや釜谷は、多くの民家も診療所もある集落だったが、ことごとく破壊され、だだっ広い原野と化してしまった。そのなかを大型ダンプが、砂塵をあげながら何度も行き来している。        (2012年7月18日)

【往還集124】30 また写真か

大川小学校の慰霊碑で読経する僧の人々。

家から車で二時間弱。久しぶりの大川小学校へ。
北上河畔に散乱していた家屋も船もほとんど撤去され、田んぼは雑草で埋め尽くされている。
小学校周辺の瓦礫の山もかなり消え、立派な慰霊碑と「子もり」の石像も建てられた。いっぱいの花と折鶴。
私も膝を折って、いつまでもいつまでも額づく。
すると山形ナンバーのマイクロバスから十数人の僧が降り、読経をはじめる。それからさらに数台のマイクロバスが到着、団体さんがつぎつぎと降りる。大川小学校はいつしか、東日本大震災慰霊のメッカになっていた。
ちょうど遺族の方らしい男性ふたりが、清掃具をもってやってきた。ふたりは読経や礼拝の終わるのをかたわらで待っていたが、それとはしらぬ団体さんは碑のまえに整列し、ポーズをとりはじめた。
「また写真か」
男性のひとりは小さな声で舌打ちした。それでも撮影の終わるまで待ち、静かに清掃をはじめた。        (2012年7月18日)

【往還集124】29 変声期の声、その他

中村達(つとむ)は「歩道」の人。生活のなかのさりげなさに、光る一瞬をとらえる歌人だ。その一瞬に透視するのは、ごくあたりまえのことでありながら、えもいわれぬおかしみであったりかなしみであったりする。

変声期近からん子がある時はわれを呼ぶ声怒りのごとし

「子」とは、少年から青年へ脱皮する途上の息子のこと。変声期は、心身のちぐはぐさを負う、男の子にとって最も不安定な時期だ。怒っているわけではないのに、そのようにしか声を出せない。つまり自分が自分と一致しない。中村はそれを的確にとらえている。

山田五十鈴ああまだ生きてゐたのねと妻の言葉は日月(じつげつ)のこゑ

「平成十三年」の章にあるから11年まえの作。主舞台から遠ざかり、消息がわからなくなる女優がいる。「まだ生きてゐたのね」は、なにか残酷で、それでいて哀感も漂ってくる。その山田、7月9日の午後7時に逝去、95歳。昨日のこと。    (2012年7月10日)

【往還集124】28 それもまたよろし

「往還集121」の「8雑草」に、雑草の均整のとれた姿にみとれてしまったと書いたことがある。
窪田空穂『草木と共に』の「後記」を読んで、目がちかっとした。
「八十代も終りに近く、九十歳に手のとどこうとする老衰者の短歌集である。」
と、まず書く。
「あらゆる植物が皆美しく、生きて、静かにその美を変化させており、深く、測りがたいものを蔵しているように見えて来た。」
『木草と共に』の題はこの心境からとっている。
自分は雑草の均整美を新たに発見した思いで書いた。しかしこれは空穂同様、老境にかかわるものらしい。内心ショック、けれど納得するところもある。69歳を老境というには、いくらなんでも勇み足だろうが、しかし例外なく〈老い〉という空気のような、または塊のようなものが体内に、一歩一歩と侵入してきている。
空穂を読むと、「それもまたよろし」と心も平らに受け入れられるから不思議だ。
(2012年7月9日)

【往還集124】27 チェロの音色・続

「トロイメライ」
「印度の虎狩」
「愉快な馬車屋」
「ラプソディ」
「第六交響曲」
などなど。これらには正式の楽譜になっていないのもある。
それにしても大ホールとちがい、直近で聞くチェロはかなりの迫力だ。「印度の虎狩」などは、猫が目や額から火花を出すのも「なるほど」と納得させられる勢い。
参加者にあらかじめ質問事項を募ったら、何枚も集まってきた。
「山本さんがチェロにとりつかれた一番の理由は?」
「賢治の実際の演奏の腕前はどの程度?」「私は58歳。フルートを習っていますがどの程度まで上達できるでしょうか?」
などなど。
私のほうからも、
「オーケストラの指揮者と楽団員の関係は?」という興味深い質問を。
最後にプレゼント曲として「精神歌」「星めぐりの歌」を演奏してくれた。会場の皆さんも声高らかに合唱。いつもは肩の凝る講座だが、今回は皆で楽しめた。山本さん、ありがとうございます。      (2012年7月5日)

【往還集124】26 チェロの音色

「セロ弾きのゴーシュ」の曲を演奏してくれる、チェロ奏者の山本純氏。

仙台文学館ゼミナール「宮沢賢治を読む」は6回目を迎える。本年度とりあげるのは「鹿踊りのはじまり」と「セロ弾きのゴーシュ」。今日は最終回で、「セロ弾きのゴーシュ」。この童話はわかりやすくておもしろく、子どもたちの人気も一、二を争う。
賢治も楽しんで作ったかどうかといえば、それはなんともいえない。なにしろ大正15年に書き起こし、昭和8年まで手入れをしている。ということは最晩年まで推敲したことになる。しかもこの作品には賢治の全音楽体験が裏打ちされている。
いったい賢治はなぜチェロ(セロはフランス語読み)が気に入ったのか、実際のチェロはどういう音色をもっているのか。それを直接耳で確かめたいではないか。
というわけで最終回は特別ゲストをお招きした。仙台フィルのチェロ奏者山本純(じゅん)氏。山本氏は、「第一夜」から順を追って解説してくれ、そこに出てくる全曲を演奏してくれた。        (2012年7月5日)